最高裁判所第一小法廷 昭和60年(オ)1402号 判決 1988年10月13日
上告人
旧姓小松
小杉富代
右訴訟代理人弁護士
鶴田和雄
鶴田小夜子
被上告人
株式会社清水銀行
右代表者代表取締役
鈴木忠
右訴訟代理人弁護士
尾崎昭夫
武藤進
額田洋一
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人鶴田和雄、同鶴田小夜子の上告理由について
普通預金、定期預金及び定期預金を担保とする当座貸越の各取引を組み合わせ、一定額までは定期預金の払戻請求債権と当然に相殺する予定のもとに普通預金の払戻しの方法により貸越しをすることを内容とするいわゆる総合口座取引において、銀行が権限を有すると称する者からの普通預金の払戻しの請求に応じて貸越しをし、これによって生じた貸金債権を自働債権として定期預金の払戻請求債権と相殺した場合において、銀行が右普通預金の払戻しの方法により貸越しをするにつき、銀行として尽くすべき相当の注意を用いたときは、民法四七八条の類推適用によって、右相殺の効力をもって真実の預金者に対抗することができると解するのが相当である(最高裁昭和五五年(オ)第二六〇号同五九年二月二三日第一小法廷判決・民集三八巻三号四四五頁参照)。
原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、本件預金の払戻請求に応じた被上告銀行に過失がないとした原審の認定判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、右と異なる見解に立って、又は原判決を正解しないで、これを論難するものにすぎず、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大堀誠一 裁判官角田禮次郎 裁判官大内恒夫 裁判官佐藤哲郎 裁判官四ツ谷巖)
上告代理人鶴田和雄、同鶴田小夜子の上告理由
第一 <省略>
第二 上告理由―判決の結果に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背
一 <省略>
二 右主張が容れられないとしても、原審の前記判断は、民法四七八条―とりわけ注意義務の程度―の解釈適用を誤ったものであり、右違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
1 原審が、一方では「相殺を予定してなされた(定期預金を担保とする)本件貸出しに伴う貸越金との相殺の効力に関する限り、これを実質的に本件定期預金の期限前解約による払戻しと同視するのが相当である」〔理由二項2〕と判断しながら、他方で「預金払戻し請求を受けた銀行側担当者が相手方の借受権限の有無を判定するに際し尽くすべき注意義務の程度を、普通預金取引における払戻しの場合のそれとおおむね同程度と解することになる」〔理由二項3(四)〕と結論づけた―『おおむね同程度』の趣旨が必ずしも明らかではないが―のは、従来の学説・判例を前提とする限りそれ自体矛盾するものである。
そして、その理由付けとするところも高々払戻しの手続きが同じであること、銀行側に応諾義務があることを言うに過ぎず、普通預金の払戻しに比べ(貸越金額が多くなるに従って)利用頻度は明らかに小さく、経済的実質的に預金者本人に与える影響ははるかに大きく、普通預金の払戻しよりは定期預金の中途解約に近似するという実質を見落とした不当なものと言わざるを得ない。預金者本人の損失において銀行が免責を受けるという本件のような場合、預金者本人に与える影響の大小こそがそれに応じて銀行側に課せられる注意義務の程度と相関するのであり、銀行側自らが手続の簡易化を図っておきながら―そしてその利益は専ら銀行側にある―これに従って銀行側の注意義務も軽減されるとする立論は到底とり得ないところである。
2 綜合口座取引が採用された動機が、(1)定期預金を満期日前に解約することによる利息の不利を回避すること―他面、借越が長期に亙ると支払利息が上回り損をする結果となることもあり、銀行側から見れば、定期預金を確保しつつ、担保付の極めて安全な貸出しが可能ともなる―(2)そのつど預金担保貸出の手続をとることによる負担の軽減にあることは、夙に指摘されるところであり、その利益が専ら銀行側にあることは明らかである。
また、個人が銀行との取引を開始するに当たっては、特に預金者側の意向は聴かれることなく、半ば当然に綜合口座取引が選択され―取引数の多いところでは、二重、三重にも綜合口座取引がなされている例も多いと聞く、定期預金についても、綜合口座取引におけるそれが、右に起因する銀行側の営業政策として推奨され、預金者により特に別途の定期預金とすることの申出がなされない限りこれによっている―この場合でも預金者は普通預金とは区別された定期預金と考えている―というのが、銀行の預金取引状況の実際である。
即ち、預金者側の選択によってではなく、銀行側の一方的な都合により謂わば附合契約的に綜合口座取引によることが一般化していることが見逃されてはならず、右のような現状認識こそが注意義務の程度の判断の前提とされねばならないのである。(付言すれば、右綜合口座取引の一般化・CDカードの利用等手続の簡易化に伴って、必然的に本件のような事故発生の機会もまた増大することに鑑みれば、口座開設に当たっての銀行側の説明義務も加重されるものと考えられるが、第一審、原審を通じてこの点についての審理は全く尽くされていない)
3 原審が『おおむね同程度』とあえて曖昧な表現によっているのも、善意に解すれば、本件を、民法四七八条の適用についての注意義務の程度としては、普通預金払戻しと定期預金期限前解約の中間領域に位置することを前提としていると見ることもできるが、寧ろもう一歩進んで、定期預金期限前解約を避けて、なおかつ、経済的にはこれと同様の結果を来すものとして、綜合口座の当座貸越を利用した預金払戻しの方法による場合には、定期預金期限前解約の場合と同程度のより高度の注意義務が要求されるとすべきである。〔原判決理由中二項3(四)一四〜一五頁参照〕
繰り返せば、普通預金との手続の同一化、貸越(払戻)の応諾義務化は専ら銀行側の利益を追及したことの帰結であり、決して銀行側の注意義務軽減の理由とされるべきものではないのである。
三 二項記載のとおりより高度の注意義務を前提とした場合は勿論、普通預金払戻と同程度の注意義務で足りると解した場合でも、本件は被上告人の注意義務違反が認められる事例であるにもかかわらず、これを認めなかった原審の判断は、経験則の適用を誤り、ひいて民法四七八条の解釈適用を誤ったものであり、これが判決の結論に影響することは明らかである。
1 原審は、「被控訴人がこの(印鑑)届出照合手続を経ていた」ことを殊更に指摘する〔理由二項1(二)(2)〕が、銀行側としては、綜合口座取引を開始するに当たり、預金者の意向を確かめるまでもなく―預金者が特にこれを断らない限り―右照合手続をするのが常態で、上告人と被上告人の取引開始に当たっても右の事情は異なるものではないのであるから、右事実は二項2記載の事情と同様、被上告人の注意義務を加重するものではあっても、決してこれを軽減するものではないのである。
2 「男性が女性名義の…通帳、印鑑を持参して、預金の払戻し、解約等のため来店することは、金融機関の日常業務でしばしば遭遇する」〔理由二項3(二)〕ことは、原審が指摘するとおりであるとしても、かかる場合には、来店者が預金者本人でないことは判然としているのであるから、預金者の委託を受けたものであるか否か注意すべき一場合であることも動かしようのないところである。(乙第一〇号証―防犯カメラ取扱要領でも、撮影基準の一場合とされている)
3 原審は、「本件取引規定中には、契約店以外の店舗においては定期預金の解約に応じない旨の定めはなく、内規上もかかる制限をしていない金融機関も少なくない」〔理由二項3(二)〕旨判示するが、乙第三号証によれば、本件については、契約店以外の店舗においては定期預金の解約に応じない旨の規定が明らかに存在しており、現実に被上告人静岡支店行員は来店者に対し、これにもとづいて定期預金の解約の申し出を断っているのであるから、他の金融機関の取扱はともかく、かかる具体的事情、並びに、にもかかわらず(契約店以外では解約の出来ないことを知らされてるであろう預金者から委託されたはずの)来店者が契約店ではない静岡支店において定期預金の期限前解約の申し出をなしたことこそが判断の基礎とされなければならない。
4 「間近に迫った満期を待たずに定期預金の解約を申し出ること…は、それ自体異例な事柄には属さない」〔理由二項3(三)〕ことは原審の言うとおりかも知れないが、『それ自体』ではなく、これが契約店以外の支店で、かつ、男性によってなされたことと併せて判断されなければならないのである。
5 また、原審は、「CDカードにより普通預金の払出しが行われた場合には、預金者本人においても預金残高を正確に把握していないことは珍しいことではない」〔理由二項(四)〕と判断するが、平均的な家庭(上告人方がそうであることは、取引状況から明らか)にとって、一か月の引出額合計金三七万円という金額は、はるかに日常家事の範囲を越えるもので、(夫が妻にではなく)妻が夫にその事実を告げていないことは通常有り得べからざることであり、右事実を「特に聞かされていなかったとしても、何ら不思議ではない」とは、非常識極まりない独自の推論と言うほかないであろう。
仮に原審の言うとおりであるとしても、金額はともかく払出しをしたこと自体は承知しているのであるから、来店者が預金者本人の配偶者等の関係にあれば正確にではなくとも払出しの事実は知らされているのであろうから、また、預金の出し入れを預金者本人の自由に任せていた―そのために一々払出しの事実を知らされていなかった―とすれば、来店者が払出しをするのは特別のことで自らは不知の間に預金出入りがあるかも知れないと考えるのであろうから、いずれにしても窓口で残高を確認したうえで払出しの請求をするのがむしろ常態であると推認するのが経験則に合致するところである。そしてまた、来店者が預金者本人と右のような関係になければ―預金者本人が預金残高を正確に把握していないとすれば―預金者本人から預金残高を確認するよう指示された上でその払出しを託されるのがこれまた普通であろう。
本件は、来店者が当初金三〇〇万円の払出をうけようとして定期預金―それもあと四日間待てば満期になるはずのもの―の解約を申し出をしてこれを断られるや、転じて窓口でその残高を確認しようともせず、昭和五六年九月一日現在の残高を示すにすぎない通帳の記載のみに従ってほぼその満額である金一二七万円の払出しの請求をなしたというものであり、かかる具体的推移の中で右事実も判断されなければならないのである。
然りとすれば、右事実のみからしても、来店者と預金者本人の結びつきが極めて希薄であることが看取されるのであり、「女房のやつおろしやがったな」と芝居じみた台詞さえ吐いて「預金者の夫然として振舞」っているにしてはおかしいと被上告人をして不審を抱かせるに充分であろう。
6 来店者が当初払戻の請求をしたのが金三〇〇万円であるにもかかわらず、現実に払出しを受けたのが金九〇万円であることからすれば―まして、被上告人静岡支店から草薙支店までは一時間あれば充分到達できる距離であるから―経験則上「来店者が折角払戻しを受ける予定で来店した以上、せめてその支店で引出し可能な金員をとりあえず受け取りたいとする態度に出ることも…来店者の気持と資金調達の必要度次第によるところとして理解できないことではな」いとは到底言い得るものではない。むしろ仮に一時間程度では間に合わないとしても、金三〇〇万円という金額から考えれば、真にこれを必要とするのであれば来店者自身が申し出て草薙支店に連絡をとりなんとかこれを調達しようとするのが通常であろう。(逆に言うならば、金三〇〇万円必要であったものが、金九〇万円で間に合う場合を想像することは極めて困難で、当初からいくらでも下ろせるだけ下ろせばそれでよいという場合を思いつく程度である)
むしろ、第一審の「請求者は満期前解約が静岡支店ではできないと断られるや、直ちに貸越限度までの支払請求に切り替えたが、はじめから貸越限度以内の金員で足りるならば、わざわざ満期直前の段階で解約請求をしなくてもよいはずであるし、又緊急の必要があってどうしても本件預金全額の金員が入用ならば、貸越限度額までの引出請求などせずに、さほど遠隔でもない契約支店草薙支店へかけつけ、解約請求するのが合理的行動といえよう」との判断〔理由二項1(二)(1)〕こそ経験則に合致するところである。
7 被上告人が、来店者に対して事実に不審を抱いていたことは、(1)窓口の担当者ではなく、静岡支店長代理の役職にある杉山裕一郎行員が来店者との応対をしていること、(2)常に撮影するのではない防犯カメラを来店者に対して作動していること等から明らかであり、右杉山行員自身、定期預金の満期前契約の申し出をしたこと、金一二七万円の払戻し請求を受け残高不足であることが判明したことから来店者に対して不審を抱いたことを認めているのである。〔原審も同様の認定をする―理由二項3(四)〕
原審は、他方において「杉山は…来店者が…払戻し等の権限を授与されている者であると信じていた」「無権限で…している(と)疑われるような情況はなかった」〔理由二項1(七)〕との認定をするが、これが、右認定事実と齟齬するものであることは多言を要しないところであろう。
8 尚、原審においてはその審理が尽くされていないが、上告人が被上告人に対して、本件以前に定期預金の期限前解約の申し出をしたことはなく、契約店である草薙支店以外においてCDカード利用以外の方法で―すなわち、本件と同様印鑑と通帳により普通預金払戻し請求をしたこともない。更に、本件のように金一〇〇万円にも上り貸越しとなる普通預金払戻しをしたことのないのは勿論、当座借越が生じたのも、本件の直前である昭和五六年九月二九日が初めてのことである。(これらの事実は、上告人に問い合わせるまでもなく、被上告人の独自の簡単な調査で判然とする事項であり右のようなこれまでの取引経過に照らせば、本件による定期預金の期限前解約等の申し出が極めて異例の出来事であり、不審を抱かせるに充分であったことは明らかである)
9 仮に、以上の事実が、その一つひとつを捉えて見た場合には、「金融機関の日常業務でしばしば遭遇することであ」ったとしても、右のように重なり合って存在するときは、それを全体として考察すると、来店者が預金者本人である上告人から普通預金払戻し等の権限を授与されておらず、無権限の者ではないかと疑われるような特異な情況があると認めざるを得ないであろう。しかるに、被上告人の担当者は、右幾多の事実があるのに、来店者が通帳と届出印鑑を持参する者であることを確認しただけでそれ以上真に右払戻し等の権限を有する者であるか否かを確認するために何らの措置をとることなく漫然払戻しに応じたものであり、過失があると言うべきである。
「払戻請求が当座貸越を伴うこととなるに至るや」「その用途の説明を求められたり、代理人ないし使者によって払戻請求する場合にはその者と預金者との身分関係の開示や必要に応じては証明書類の提示まで求められることになる」のではなく、原審と同じ程度の注意義務を前提としても、右事実の重なり合いにより、原審が指摘するような方法(これに尽きるものではなく、独自の調査もしくは預金者本人への確認程度で足りる場合が殆どであろう)による確認が必要となるのである。
10 以上要するに、原審も「当初金三〇〇万円の払戻しを受けようとして本件定期預金の解約を申し出た預金者側に真実金額を調達する必要があるのであれば、何故遠隔地ではない(預金者住所地により近い)草薙支店に回って予定どおりの払戻しを受けようとせず、静岡支店での引出しに固執するのか、その首尾一貫を欠く態度にはいささか―どころか極めて―腑に落ちないものが感じられる」〔理由二項3(四)〕ことまでは正しく認定したのであるから、この事実に1〜9記載の事実を総合してこれに経験則を正しく適用する限り、仮に注意義務の程度を普通預金取引における払戻しの場合のそれと同程度との前提に立っても、まさしく来店者が無権限で払戻しの手続をしているのではないかと疑うべき相当の理由が認められる事例であるとの判断に至ったはずである。
にもかかわらず、原審が右相当の理由が認められないとしたのは、1ないし9記載のとおり各個の事実についても、その総合的判断においても経験則の適用を誤った結果ひいて民法四七八条の解釈適用の誤りを来したものであり、取消しは免れないところである。
第三<省略>